キリシタン(施設・遺跡)

大江天主堂
崎津教会
南蛮寺
アルメイダ上陸地・南蛮船停泊地
ペーが墓
天草コレジヨ
切支丹灯篭・切支丹墓石


大江天主堂
 天草町大江

 天草のキリシタンは、徳川幕府の禁教時代にも「かくれキリシタン」として、ひそかに根強い信仰を続けたが明治に入り禁制が解かれて再び布教が行われました。
 仏人ガルニエ神父は、明治1825歳で宣教師としてこの地を訪れ、昭和1682歳で亡くなるまでの40数年間布教につとめ、村人からは慈父のように慕われました。
 現在の天主堂は神父が私費を投じて、昭和8年完成させたものです。
明治40年、北原白秋等5名のいわゆる「五足の靴」の旅は、天草言葉の巧みなる仏国僧侶に会うのが主な目的とあり、ガルニエ神父に会っています。
 熊本県



崎津教会(天主堂) 天草町崎津

弾圧を経て、信仰を守ったキリシタン信者のより所として1883(明治16)に最初の教会が建った。現在の教会は、ハルプ司祭が1934(昭和9)にゴシック建築様式で改築した。


崎津カトリック教会(天主堂)の由来記

 崎津教会は、アルメイダ神父により1569(永禄12)223日に建てられ、ここを中心にして、キリスト教は天草に栄えたのでした。然しながら、1638(寛永15)の禁教令が天草で実施されてから崎津では特に激しい迫害の嵐が吹き荒れました。
 公然と信仰を明らかにすることを禁じられたキリスト教徒は、隠れキリシタンになり、ひそかに真夜中に一緒に集まって神を礼拝し、お祈りを献げていました。 隠れキリシタン達は、生命や財産の危険をもかえりみず信仰こそ何物にも勝る宝であり、幸福の源泉であると、確く信じていました。この宝を子孫に伝えるために、七人の村人を先生として選び、「水方」と名付けました。此の名は水方の仕事の一つである洗礼の儀式から取られたものです。即ち、洗礼の儀式では魂の浄めのシンボルとして、水を注ぐことが必要とされたためです。
 明治5(1872)にキリシタン禁制の高札が廃止されるや、神父は、240年ぶりに再び崎津に帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎をうけました。かくして、二世紀半の間 文字通り隠れて守り抜いた先祖代代の信仰を 公に行うことの出来る新しい時代が訪れたのです。 此の教会は明治以来三度建て直され、現在のものは長崎の鉄川与助の施工によるゴシック風建築であります。 正面の祭壇のある場所で迫害時代に厳しい踏絵が 毎年行われていました。 現在この教会は崎津の400名のキリシタン信者の祈りの家として、毎日使用されています。
 以下略。


上津浦南蛮寺とキリシタン墓碑 有明町上津浦

 天草五人衆に列する豪族上津浦種直が、キリシタン宗門に帰依し、洗礼名ドン・ホクロンを名のったのは、宇土城主ドン・アウグスチノ小西行長に服属していた天正18年(1590)のことである。かくしてこの地には、南蛮寺が建立され、全領民の間に信仰の火が燃えひろがった。
 しかし、慶長19年(1614)徳川家康のバテレン大追放令により、マルコス・フェラロ神父が救世使天草四郎の出生を予言した「末鑑の書」を残してマカオに去り、南蛮寺は破壊されてしまう。
 しかし、寛永14年(1637)上津浦古城を前進拠点として天草の乱がおこり、近郷近在は、荒廃をきわめる「亡所」と化してしまった。
 乱平定後、天草の再建策をすすめる名代官鈴木重成は、仏教による邪教根絶と民心安定を念願し、南蛮寺跡に圓明山正覚寺を創建とした。正保3年(1646)のことである。以来、339年の歳月をけみした昭和60年1月17日、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を改体したところ、ここに展示する扁平型、自然石型、かまぼこ型、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現したのである。□かまぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれている。十字架は、いわゆる干十字、その左右には人名と没年月がみられる彫り込み有するが、のみか何かで人為的に削り取られ判読困難である。
 それでも、ながいながい眠りから醒めたキリシタン墓碑は、見るものに、偉大だった天草の世紀を語りかけてやまない。



  
南蛮寺

 天
正17年(1589年)上津浦城主ホクロン殿が建立した南蛮寺は、キリシタンの布教活動の拠点であった。最盛期には3500人を超える信徒が上津浦城主の庇護の下にキリシタンに帰依し、ここには宣教師も駐在していたが、天草・島原の乱の跡は弾圧を受け、南蛮寺も破壊されその跡には仏教寺である正覚寺が建てられた。昭和60年、本堂の改築の際に発見されたキリシタン墓碑には、IHSのイエズス会の紋章と十字架が彫りこまれており、南蛮寺興亡のいい伝えが歴史的事実として裏付けられた。杉小立に囲まれた境内には、キリシタンの司者が植え付けたといわれる樹齢約400年の南蛮樹(ナギの木)が今もあり、往時の面影を伝えている。



正覚寺のナギ(ナギ)


ふるさと熊本の樹木昭和56年3月12日登録この樹は、南蛮樹と呼ばれている。これはキリシタン時代、当寺建立前に南蛮寺がありバテレンによって海外から持ち込まれたものと言われている為である。昭和56年3月熊本県





ルイス・デ・アルメイダ上陸地跡
南蛮船碇泊所跡
   天草町一町田


 ルイス・デ・アルメイダ神父は「永久運動」とニックネームがつくほど精力的な布教を西日本各地で続けたのち、河内浦に帰り、158310月、59歳で昇天した。永眠の地は、ここより800mほど一町田中央寄りの信福寺境内(天草氏菩提寺)であるといわれているがね墓標は特定されていない。

 河内浦城主、天草鎮尚
(ドン・ミゲル)は豊後(現大分)の領主、大友宗麟にならい海外貿易の拠点として、この地に蛮船碇泊所を開き、南蛮貿易及びキリスト教伝導を目的として、博愛の神父ルイス・デ・アルメイダ(貿易商人、外科医師、宣教師)を招いた。




ぺーが墓
 五和町御領釜ノ迫

 五和町には、約1千基のキリシタン墓碑があるが、このぺーが墓(ティーが墓)は独立した墓所として、ほぼ原型のまま14基遺っている。
 「ぺー」とは洗礼名の一部であろうといわれている。墓石の表面に素朴な十字が刻まれており、戦国末期(禁教前)のものと思われる。中心にある大きな墓碑に「18」と数字が刻んである。

   ※キリシタン墓碑は、御領の他、城河原、手野、二江、各地に多数分布している。

 

   

天草コレジヨ  天草町一町田


 天草の町と呼ばれたここ河内浦には、当時わが国唯一の宣教師養成のためのコレジヨ
(大神学校)1591年から97年までの7年間存在した。その教育は、当時世界の名門校コインブラ大学のペトロ・ゴメス執筆の「天球論」が教材として使用されていることからもわかるとおり相当程度の高いものであった。またこのコレジヨには、1591725日、その前年に帰国して豊臣秀吉にも面接した遺欧使節の四少年達が、コレジヨ創設者ヴァリニヤーノ神父にともなわれて入校している。さらにこのコレジヨにはノビシアド(修練院)が併設されていて、そこでは遺欧使節等がヨーロッパから持参したグーテンベルグ式金属活字印刷機を使って、イソップ物語や平家物語、ラポ日辞典等文化史上世界的に注目される貴重本が多数印刷出版されている。






切支丹灯篭  本渡市切支丹館


 織部灯篭ともいわれる。
 織部流茶道の祖である古田織部正重然が天正年間
(157391)の切支丹全盛時代に、信者や茶人の好みに合うよう創案したものといわれ、天文18(1549)にキリスト教が伝来するまでは、この様な形の灯篭はなかった。
 この灯篭の特徴は竿石がラテン十字型でいけ込みになっており竿石の正面下部に人物像が彫られている。
 この人像はきリストを表し、更に上部に記号のような彫り込みがあるものも多いが、これは「神に捧ぐ」と言った意味だとの説がある。
 これらの灯篭が切支丹灯篭であるといわれるためには、これらの灯篭が切支丹によって使用されたかどうかによって決まるといえよう。
 この灯篭は寛文年間に製作された切支丹灯篭と形が同じである。
 

切支丹墓石(かまぼこ型) 本渡市切支丹館
 

 切支丹を公然と表明した墓碑は少ない。これは本渡の広瀬で発見されたものでいわゆる、かまぼこ型墓石である。
 自然石・平型・丸型・箱型・かまぼこ型・入母屋型など種類は多い。



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